誰かの言動や振る舞いややり方を見ていて、強烈な違和感や嫌悪感を覚えるとき、「こんなことを思ってはいけない」と蓋をすると、嫌なものが自分の内側に溜まってしまう。
溜まっているとだんだん機嫌が悪くなっていく。自分まで嫌になる。人生がつらくなる。
そうではなく。
いったん、すごく嫌だなという感情を味わうのがいい。
しばらくは不快だけれど、じっと我慢してみる。そして「何が私にそのような感情を抱かせているのか」とその「不快」に問いかけていく。
そうすると、誰かの言動や振る舞いややり方を冷静に説明できるようになってくる。それは何をしているのか、そしてそこに(勝手に)自分の解釈を加える。
言葉にしてみると、「私はそういうやり方はしない、そうはありたくない」という思いが湧いてくる。
「じゃあどうしたいのか、どうありたいのか」も次に出てくる。
問いだけが立って、答えはすぐに見つからないことが多い。しかし少なくとも、「自分なりの何かを探しているのだ」と自覚ができる。
その思いをなんとなく持ったまま日常を過ごしていると、あるとき突然にヒントに出会う。ゴロッと動くこともあるが、だいたいは小さいヒントに遭遇するようなことだ。そこから少しずつひらけていく。自分らしく生きるというのは、こういう地道な作業の積み重ねだったんだと思い出す。
これを書いているのは、今またそのような感覚に陥ったからだ。誰かの言動や振る舞いややり方を見ていて、突然、嫌悪感に襲われた。
毎回上記のプロセスを辿っているはずなのだが、すっかり忘れて、毎回とても嫌な気持ちになるのはなぜだろう。
協調性を重視する環境で生きてくると、自分とは違うことをする人や、自分の好みでないやり方を見たときに嫌悪感が生まれるのは、ある程度仕方のないことだとも思う。人間の性質なのだと思うと、気が楽になる。自分と仲良くしながら、よい道を探りたい。
自分だけの何かが見つかったとき、とてもうれしい、爆発的な喜びを覚える、あの瞬間のことも知っているから、ちょっと堪えて、不快を見つめてみる。
誰かへの説教ではなく、自分の日々のお稽古の記録として。